先日は、鈴鹿連峰の滋賀県側から茶屋川支流の大井谷を遡行して竜ヶ岳に登りました。前回の粕川西谷と同じく「癒し渓」でした。例によって、前夜は、持ち寄ったご馳走を囲んで、四方山話が弾みました。しかし、我々のは一味違います。高尚な哲学・宗教談義もあるのです。中でもO代表は弘法大師・空海に関心がおありとのこと。自分は、歴史書・哲学書・小説などは殆ど読まない人ですが、過去数冊読んだ沖ヨガ関連の書物に弘法大師にまつわる記載があったので、自分なりにまとめてみました。
10年少し前に、父の古希の祝いをすることになり、1065山目として奥高野の伏拝山に登る前夜に、高野山宿坊に泊まりました。翌朝、お勤めに参加し、法話を拝聴しました。
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(傍らの曼荼羅を指差しながら)真ん中の大きな仏様の周囲に、より小さな仏様(眷属けんぞく)がちりばめられています。一番隅っこの小さな仏様は会社で言えば、掃除のおばちゃんといったところでしょう。会社では、掃除のおばちゃんなどが1人いなくなっても誰も気にも留めないでしょうが、お大師さまは、どの小さな仏様が欠けても、完全な曼荼羅ではないと仰ったそうです。ここにお大師さまの慈悲深さが良く現れています。
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このお話を聞いて、何かジ~ンとくるものがありました。
また、昨年の高野山ヨガ合宿で、真言宗最高位のお坊さんのお話を拝聴する機会がありました。
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曰く、ここでは、学会のおばちゃんも真宗のおばちゃんも隣り合わせに仲良く商売しておられます。曰く、高野山には、浄土真宗の開祖・親鸞上人のお墓もあります。
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このような、排他的でない懐の深さはどこからくるのでしょう?
唐突に思われるかも知れませんが、これはヨガから来ているのだと思われます。特に、ヨガと聞いて、あの極限的な体操しか思い浮かばない人は、なおさら唐突に思うでしょう。
ヨガの書物には、「○○をすれば、健康になれますよ、幸せになれますよ」と書かれてあっても、「○○をしない輩はけしからん、とか、悪人だ、とか、地獄に堕ちる」といった類のことは一切書かれてありません。ヨガが長く伝えられて来たのも、単なる宗派やイデオロギーではない懐の深さがあったからのように思われます。
仏教の開祖・釈迦はヨガ瞑想行によって悟りを開かれたと言われています。また、海外の文献には、最初の日本人のヨギ(ヨガを行じた人)として、弘法大師が挙げられているそうです。また、古来より瑜伽(ゆが)という名称で日本に伝わっていたそうです。前述の高野山宿坊を辞する際に、あがりがまちの傍らをふと見上げると、なんと「瑜伽根本道場」と書かれてありました。
昨今の世の中を見渡すと、「原点」に立ち帰る事を忘れて、不毛な宗派・党派・イデオロギー論争に明け暮れているようです。伝統的宗教の宗祖たちはさぞかし嘆いておられることでしょう。あるいは、「なんとか霊」を持ち出したり「先祖供養」にこじつけたりする怪しげな団体や宗教ビジネス、はたまた、健康ブーム・エコブームに迎合した誤った学説・論説なども、暗躍しているようです。
さて、週末、南紀熊野でリタイア後の田舎暮らしを満喫されているIさんご夫婦のお宅で、クラブの楽しい集まりが持たれます。ひょっとして、「原点」についてのヒントを感じ取れるかも知れませんね。
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