2017年12月8日金曜日

【開戦記念!】なぜ破滅的な敗戦に終わったのか!?

アメリカからの実質的な宣戦布告である
「ABCD包囲網(石油禁輸)+ハルノート」を受け
大日本帝国は資源確保・国家存亡を賭け
大東亜戦争に打って出た

という歴史認識が日本国民の間にかなり広まって来たように見受けられるのは喜ばしいことだと思います。しかし、

なぜ破滅的な敗戦に終わったのか?

という点についてはいかがなものでしょうか?

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なぜアメリカが反日に転じて日本を大東亜戦争開戦に追い込んだか?
については、下記著書において、
コミンテルン(共産主義インターナショナル)が深く関与した
ことが明らかにされております。


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同様に、大東亜戦争が破滅的な敗戦に終わったことにも、コミンテルンが関与していた、それも当時の政府・軍部の中枢部に関与していた、ことを明らかにしているのが下記の書物です。

もちろんコミンテルン陰謀説のたぐいの書では全く無く、明治維新から終戦に至る日本近代史において、大東亜戦争に関わる政府・軍部の方針に、共産主義思想が影響を及ぼし得た原因が、日本社会の根底にあったいかなる思想的素地・社会的背景なのかを、400ページを費やして克明に解き明かした優れた歴史書・思想史書でもあると言えるでしょう。


翻って現代の政治状況を見ると、コミンテルンの遺伝子を受け継いだ中国共産党が日本を脅かし、日本共産党民進党の国会での態度は、コミンテルン規約にある「議会とは政府を攻撃して政治不信を煽る場である」の通りになっています。また、民進党が標榜するリベラル思想とは、思想史研究者によって、マルクスレーニン主義の後継だ、と指摘されています。

<自分なりのまとめ(時系列的に)
歴史の素養がないことも相まって、一度読んだだけでは頭に入らず、いろいろな書評を読んでから、もう一度、赤線を引きながら読んで、時系列的にまとめてみました。かなり長くなりますが、ご笑読いただければ幸いです。

開国・明治維新
 ↓
自由民権運動により、藩閥政治から、
明治天皇による五箇条の御誓文発布(1868)、大日本帝国憲法制定(1889)へ
 ↓
エリートたちは、西洋の圧倒的な工業力・軍事力に脅威を感じ、
日本の独立を守るため、産業の西洋化を進めるべきだと考えた。
 ↓
思想・文化については、古来の伝統・文化・道徳の優れたることを忘れ
西洋のものこそ進歩的だと思い込み、西洋化を進めようとした。
 ↓
しかし、急激な近代工業化により、労働環境整備が追い付かず、デフレ、恐慌なども相まって、現代の単なる所得格差とは異なる本当の意味での労働・貧困問題が深刻化した。

現代なら、アベノミクスのように金融緩和などの適切な経済政策によって打開するところだが、当時の政府は適切な対策を打てず、政府・議会への不満が高まってゆく。
 ↓
第一次世界大戦(1914)
レーニンによるロシア革命でソビエト連邦樹立
コミンテルン(共産主義インターナショナル)結成(1917-1919)
 ↓
西洋志向も相まって、労働・貧困問題に心を痛めたエリートたちに社会主義(共産主義)思想が広まって行く。また、ソ連の南下政策・支那大陸での混乱などの対外的脅威も高まって行く。そして、大正時代(1912-1926)以降、国難に対して3つの勢力が生まれた。

1.左翼全体主義勢力
世界恐慌を背景に「資本主義はもうダメだ」という不信感に基づいて、社会主義にのめり込んだグループ。昭和初期以降、このグループがソ連・コミンテルンの「秘密工作」に呼応するようになっていく。

2.右翼全体主義勢力
同じく資本主義と議会制民主主義を批判し、内心では社会主義に共感しながらも、「左翼」を弾圧し、「官僚独裁」政治にすることが経済正常化・戦争遂行のために必要であり、国益を守ることだと信じたグループ。いわゆる五・一五事件から二・ニ六事件、そして大政翼賛会に至る動きを主導したのが、このグループである。

3.保守自由主義勢力
聖徳太子以来の政治的伝統を独学で学ぶ中で、不完全であっても資本主義、議会制民主主義を尊重し、統制経済に反対し、コミンテルンの「対日工作」に警戒心を抱き、皇室のもとで秩序ある自由を守ろうとしたグループ。この「保守自由主義」のシンボルは、小田村寅二郎グループである。
 ↓
吉野作造(保守自由主義)は民本主義(民主主義)の政治の上に皇室を戴くべきだという大正デモクラシー思想を発表する(1916)。
 ↓
コミンテルンの支援の下、日本共産党が結成(1922)。
金融恐慌(1927)、世界大恐慌(1929)、昭和恐慌(1930)、満州事変(1931)。
五・一五事件(1932)を起した軍部青年将校(右翼全体主義)に国民からの減刑嘆願が殺到。
 ↓
天皇主権説を唱える上杉慎吉(右翼全体主義)が、天皇機関説を唱えた美濃部達吉(保守自由主義)を非国民だと批判したのをきっかけに、国体明徴運動として、左翼全体主義者(共産主義者)に加えて保守自由主義に対する弾圧も強まってゆく(1935)。
(天皇機関説:天皇が統治権を持つが、実際の政治は議会制民主主義のもとで政府が責任を持って行う)
 ↓
右翼全体主義の皇道派(中国と提携し対ソ防衛を主張)の軍部青年将校が二・ニ六事件を起こす(1936)。
皇道派は更迭され、以後、同じ右翼全体主義の統制派(中国を叩いて資源確保し、統制経済を主張)が軍部の主導権を握るようになってゆく。
 ↓
共産党(毛沢東)にそそのかされた国民党(蒋介石)が駐留日本軍(居留民保護が目的)を攻撃したのをきっかけに支那事変が勃発(1937)。

企画院(内閣の国策制定機関)のメンバーだった尾崎秀美(実はソ連スパイ)は戦争続行を煽り、支那事変泥沼化を画策。それは、コミンテルンの「敗戦革命論」に基づく行動であった。
(敗戦革命論:戦争を敗戦、そして内乱へと導き、その混乱の中で武力革命を起こして権力を握る)
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東大法学部に入学した小田村寅二郎(保守自由主義)は国の運命を真面目に考えない憲法学者の宮澤俊義など教授陣の態度にショックを受け、告発の論文を発表する(1938)。

それは、国連平和維持活動・災害出動など現場自衛官の苦労もそっちのけで「九条守れ」「戦争法案反対」と叫ぶ現代の大学の雰囲気とそっくりであった。
 ↓
小田村らは日本学生協会を設立し、政府批判を展開してゆく(1940.5)。
 ↓
日独伊三国同盟(1940.9)。大政翼賛会が設立(既成政党は強制解散)(1940.10)。
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言論弾圧により東大を退学させられた小田村は民間シンクタンクとして精神科学研究所を設立する(1941.1)。
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フランス領インドシナ(現在のベトナム・ラオス・カンボジア)に進駐(1941.7)。
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ルーズベルト民主党政権が米国内日本資産凍結・対日石油禁輸を発動。
 ↓
尾崎秀美がスパイ容疑で逮捕される(ゾルゲ事件)。
近衛内閣退陣、東条内閣に(1941.10)。
 ↓
東条首相は強硬派だったが昭和天皇の強いご意向を受けて対米開戦回避に努力するも不調に終わる。
 ↓
ルーズベルト民主党政権が日本にハルノートを突き付ける(1941.11)
 ↓
企画院(内閣の国策制定機関)が「国防国家の綱領」を発表(1941.11)。

今日、その内容を冷静に見ると、共産主義色に溢れており、戦争目的がいつの間にか資源・権益確保から米英資本主義打倒にすり替わっていることがわかる。実は、偽装転向した左翼全体主義者(共産主義者)が多く入り込み、政府・軍部の方針に影響を及ぼしていたのであった。
 ↓
真珠湾を攻撃(1941.12)、宣戦布告は手違いで前後。
 ↓
英国植民地主義の象徴でもあったシンガポール要塞陥落(1942.2)に全国民挙げて祝賀ムードに盛り上がる。

しかし、これを危ぶんだ小田村ら精神科学研究所メンバーが調査した結果、東条内閣周辺には「戦争終結の目標策定に関する機関」が全く用意されていない、ことが判明した。
 ↓
以後、敗戦革命を目指しているかの如く、戦線拡大の一途を辿って行く。
 ↓
近衛元首相は周囲の助言から日本国がコミンテルンの謀略に嵌っていることに気付き昭和天皇に「近衛上奏文」を提出し、「革新」官僚たちが敗戦革命を狙っている、ことを「勇気」を出して進言(1945.2)。
 ↓
広島・長崎に原爆投下(1945.8.6,9)。
ポツダム宣言受諾、無条件降伏(1945.8.14)。
昭和天皇による終戦の詔書、玉音放送(1945.8.15)。

amazon内容紹介より転載>
日米英を戦わせて、世界共産革命を起こせ――。
戦前の日本もスパイ天国だった……。

ロシア革命が成功したあと、レーニンは世界革命を遂行すべく、「コミンテルン(共産主義インターナショナル)」をつくる。それは恐るべき思想と悪魔的手法に裏打ちされた組織であった。
そして大日本帝国は、やすやすとその謀略に乗せられ、第二次大戦に追い込まれていく。 なぜ、そうなってしまったのか?

実は、その背後には、日本の「自滅的」な大失敗があった。リヒャルト・ゾルゲ、尾崎秀実らが暗躍していたことは、よく知られたことだろうが、彼ら以外にも、軍や政府内部に入り込み、ソ連・コミンテルンの都合の良いように動く人々がいたのである。

どうして当時の日本のエリートたちは共産主義にシンパシーを覚えたのか?
ソ連型の共産主義社会をめざす「左翼全体主義者」と、天皇を戴きながら社会主義的統制国家をめざす「右翼全体主義者」は、いかにして日本を席巻したのか?
そして左右の全体主義の危険性に気づき、その勢力に敢然と立ち向かった保守自由主義者たちの姿とは――?

コミンテルンの戦略を詳述しつつ、日本国内の動きの謎を解き、隠された「歴史の真実」を明らかにする刮目の書。

◆はじめに コミンテルンの謀略をタブー視するな
◆第1章 ロシア革命とコミンテルンの謀略――戦前の日本もスパイ天国だった
◆第2章 「二つに断裂した日本」と無用な敵を作り出した言論弾圧
◆第3章 日本の軍部に対するコミンテルンの浸透工作
◆第4章 昭和の「国家革新」運動を背後から操ったコミンテルン
◆第5章 「保守自由主義」VS「右翼全体主義」「左翼全体主義」
◆第6章 尾崎・ゾルゲの対日工作と、政府への浸透
◆おわりに 近衛文麿という謎

<amazonカスタマーレビューより転載(一部加筆変更)>
タイトルだけ見ると、よくある「日本=善玉(被害者)、米ソ中=悪玉(加害者)」のように、コミンテルンの謀略を筆誅している内容と誤解しそうだが、そうした単純図式を解説しているのではない。
筆者は、コミンテルンの謀略に対し、それに嵌められて敗戦に向かった日本社会の構造を俯瞰し、むしろ明治維新後の日本社会構造と脆弱性を入念に語っている。

日本の脆弱性とは、

・明治維新後の日本人が、少数のエリートにとっての日本観と、庶民の日本観という対極の社会階層が生じてしまった事。
・エリートの多くはコミンテルンの台頭する以前に、社会主義にシンパシーを持つ者が多かった事。
共産党は壊滅させたものの、転向者(偽装)の多くが容易に、政府、官界、マスコミ、シンクタンク等に入り込めた事。
軍部にも共産主義分子がいたこと(マルキストであっても、ドイツ礼賛を隠れ蓑とできた)。
と、ここまでは保守陣営がしばしば上げていることだが、筆者は保守陣営の構造を解析し、

・保守には、自由主義的保守と、右翼全体主義的保守がいた事。
自由主義的保守は、天皇機関説を唱えたがために、国体明徴運動によって、右翼全体主義的保守から非国民だと排斥され、マスコミもそのように世論を扇動し、政治家や学者の多くが迎合した事。
右翼全体主義的保守は、天皇は国家の主権者で絶対的な存在と主張する一方で、実際は天皇の意思を無視して恣意的に都合の良い解釈を正当化した事。
右翼全体主義的保守は表向きはドイツ的全体主義の成功を成功モデルに(実際はコミンテルンの謀略にまんまと嵌められて)国情に合わない政策を推進し続けた事。
などから、謀略に嵌まり敗戦に至るプロセスを、しっかりと述べている。文章は読みやすいが内容は濃密で、人名や関係機関も多岐にわたるため、読了するのに少々時間がかかった。左翼陣営はもとより、右翼や一部保守層にとっても、心地の良くない内容も含んでいる。

読了して思ったことは、この本は戦前のことを論じているが、この謀略は脈々と現在も継続中なのではないかということだ。
自分は、かねてから護憲派の「改憲を論議することさえ許さない」状況や、「軍備は不要。話し合いで平和的に解決できる」と主張する一部野党勢力が、言論の府である国会内で平然と実力行使(暴力ずく)で投票を妨害する。国会前のデモに参加、扇動を行う、という有様に疑念を持っていたが、この本を読んでその一端を理解できた。

コミンテルン指令では「国会で自分たちの法案を通過させることが目的ではない。国会や議会制民主主義の信用を失墜させるための活動が目的である」。

なるほど、国民の安全や、生活の利便性よりも、自分たちの党利党略を優先させる政治家のいかに多いことか。
また、安倍首相が改憲を明らかにするや、マスコミを上げての首相、内閣批判が収まらない(軽重からすれば日本を核攻撃すると予告している事案の方が緊急の課題ではなかろうか)のも、謀略が浸透し続けている証左なのかもしれない。

最期に、筆者の余談で面白かったものを二つ。

1.特定秘密保護法について、筆者が当局の担当者に質問した。
「特定秘密を入手できる人物の多くは官邸にいる。もし、容疑者が官邸にいる人物だった場合、警察は官邸に乗り込むことは出来るのか?」
担当者は、絶句した。そんなことは想定していなかったらしい。尾崎秀実も官邸の一員だったのではないのか?

2.筆者は言う。朝日新聞は怪しからんから廃刊させろ!という意見があるが、廃刊させるなどはやってはいけない。理由は、「そういう新聞があることで、謀略の元締めが新聞社にどういう指令を出し世論工作しているかを知ることが出来るので貴重である。廃紙させたら、相手が何をやっているかウォッチできなくなるではないか。敵を知ることは孫子の鉄則である」

戦前のことやコミンテルンに関心のある人だけでなく、現在の政治の不毛さ、そう思える報道の嵐の理由に興味のある人にとっても、買って損はない本だと思う。

<本書を取り上げているブログ>
日本人必読の書・・・「コミンテルンの謀略と日本の敗戦」|あめつちはじめてひらけしとき 
https://ameblo.jp/amethuchihajimete/entry-12308144728.html

書評「コミンテルンの謀略と日本の敗北」 - でんすけの徒然ブログ http://densuke.hateblo.jp/entry/2017/10/14/101751


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2017年11月18日土曜日

木曽谷でアマゾナイト探し

古い文献を見てたら、前回の訪問地の近くに別のアマゾナイト産地があることがわかった。古い産地だけにもう何もないかもしれないとも思ったが、ネット上に情報がまったくないので、もしかして・・・と妄想が膨らみ懲りずにはるばる出かけてまいりました。

谷の入り口に駐車し、セオリー通りにすべての支流を見て回ることにしました。と言っても、膝不安を抱える身、源流まで詰め切らず各々3分の1ほどで引き返しました。


とある支流で、ふと足元を見ると・・・

<巨大煙水晶・・・のカケラ!!>

また少し遡ると・・・

<アマゾナイト・・・ほんのり薄緑色>

こ、これは!!・・・しかし、残念ながら、後がまったく続きませんでした。

足がひどくくたびれたので、翌日は、少し北方のペグマタイト産地、蘭村のSb(アンチモン)鉱床記号、阿寺川樽ケ沢のCu鉱床記号を探索することにしました。


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2017年11月10日金曜日

木曽・柿其渓谷で蛍石探し

柿其渓谷と言えば、沢登りやキャニオニング(川下り)でも有名です。



ゲートから林道をトボトボ歩きますがそれらしき気配が全くありません。


引き返す途中、2~3の赤テープと踏み跡があったので、?!と登って行くと、「緑の回廊モニタリング調査中」と書いてある監視カメラらしき物がありました。さては自分も映り込んでしまったか?(苦笑)


また、林道を少し戻り、それらしき辺りに向かって、藪を分け、小沢を登って行くと、堀跡らしき窪みがありました。しかし、鉱石は見い出せませんでした。


 午前早々に諦め、当初は2~3の鉱山・鉱床を欲張っていたのを変更し、再び田立を探索することにしました。昨晩いろいろ思うところあって、今度は、「ほったて」及びその上流側を見て回ることにしたのですが、予想外の展開が待っていました。


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2017年11月3日金曜日

木曽・田立でアマゾナイト探し

洋名:アマゾナイト、和名:天河石、学名:微斜長石、かと思いますが、ある意味、トパーズや緑柱石(エメラルド)に匹敵するくらい稀少なようです。


さて、通称「ほったて」と呼ばれる長石採掘跡の手前辺りで車を停めてみると、何やら地面がキラキラしています。対岸の沢出合に赤テープがあります。こ、これは怪しいぞ!!と喜び勇んで侵入してゆくと赤テープが続いています。


水路があるではないですか。


グーグルアースでズリっぽく見えた左支流の所には何もなくて残念。本流も少し覗いたのですが一応見込みなしと見ていったん引き揚げました。


水路を辿ると農家の庭先に出て、採掘跡が見えました。


<モォ~~~!!>

今度は、少し下流の3本の支流を探索してみましたが、それぞれ少し入っただけでとりあえず見込みなしと判断しました。強いて言えば、左沢にトラロープがあったのが少し気になりましたが。季節外れの暑さに当てられたのか体調が悪く、3本ともあまり深入りができなかったのが残念でした。

<中央アルプス>

フォレスパ木曽あてら荘で入浴し、道の駅大桑で食事&車中泊しました。翌日は、気持ちも新たに、柿其渓谷で蛍石を探すことにしました。


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2017年10月27日金曜日

木曽・夕森自然公園で蛍石探し

地質図は夢と妄想の宝庫です。
ひとかどの石マニアなら一度ならず地質図を睨んで妄想をたくましくしたことがあると思います。えっ??ない??それはいけませんな~~、修行が足りませんな~~、単なるコレクターで終わるのでは実にもったいないですぞ。
てなわけで、妄想に駆られてはるばる出かけてまいりました。

凸凹林道へと車を乗り入れ、延々と走り、とある谷の入り口に停めました。そこから荒れた谷を遡ります。小一時間、遡ったでしょうか、ふと足元の石ころを手に取ってみると、なんということでしょう!!米水晶と細かい蛍石がくっついてるではないですか!!おそらくここが貯鉱場跡かもしれません。

ここはさておいて、とりあえず奥の二俣あたりにあるはずの鉱山跡を目指しましたが、結局、痕跡を見い出せませんでした。

貯鉱場跡らしき辺りでしばらく採集しました。結晶がはっきりしたのは殆ど無く、脈状のものばかりでした。



午後は、田立へ移動して、アマゾナイト探しです。はたして見つかりますかね~~~?


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